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まち物語制作委員会

東北まち物語100本プロジェクトから始まった紙芝居活動をとおした福島とのつながりや、広島における紙芝居つくりを紹介します。

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ふくしま紙芝居まつりIN相馬での上演作品。「大熊避難民物語 悠稀くんの手紙」

ふくしま紙芝居まつりIN相馬での上演作品。本日紹介するのは「大熊避難民物語」だ。
この物語、大熊町で自閉症の親の会の代表が避難生活での体験を元に制作した。
浪江町の「見えない雲の下で」は今だ辛くて読めねえ、
ということで、地元の人に代わり広島で読み広げている。
この大熊の物語はもっと辛辣な話、知的障害者が避難所で虐めに会うという話だ。
作りながら、これも読めないだろうと思い思い作った。
じゃがしかし、「作りましたよ」と報告したら「送ってくれ」との返信がある。
「ええっ読むの?」と思ったことを忘れない。
どこかの誰かが読むのだろうと思いきや、虐めにあった息子と一緒に読むとの事、
凄いと思う以上に「やめたら」と思った。
そこまで自分を痛めることはないのではと思ったからだ。
自分もそうだが、辛い思い出は封印するのが人間だ。
被爆者は原爆が落ちた瞬間からしばらくの間、記憶が抜け落ちている人が多い。
余りにもつらい体験をしたとき、人は自分を守るため、ブレーカーが落ちるように、
つらい想い出を遮断すると専門家がテレビでいっていた。
大熊の子連れ紙芝居師が味わった現実も、
当然、ブレーカーが落ちても良いぐらいのものだろう。なのに、なのに・・・
相馬で親子が読まれるのかは確認していないが、
お父さんが読まれるようだ。これぞ究極のドキュメンタリー作品、
是非、多くの人にご覧いただきたい。

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ふくしま紙芝居まつりIN相馬 上演作品「海を渡ったOMOIYARIのうた」

ふくしま紙芝居まつりIN相馬の上演作品紹介。
今日、紹介するのは「海を渡ったOMOIYARIの歌」だ。
東日本大震災が起きた時、
1100キロメートル離れた西日本から駆け付けるのは中々できなかったが、
東日本からは多くのボランティアが駆け付けた。
その中にはボランティア活動がその後の人生を変えた人も多かったことだろう。
この物語は相馬市の避難所に駆けつけた
ボランティアの女性が繋がりに寄り添っている内に
気が付けばインドネシアのアチェに出向くことになる。
同じ津波被害に苦しむスマトラの人々に
彼女が伝えたのが日本の歌「OMOIYARIのうた」だった。
それが大きな広がりを見せ、またたくまにアチェに広がった。
その後、アチェの子供たちが相馬を訪れるなどして、
今も交流が続いているという。震災が産んだ国際交流だ。

ちなみに、この紙芝居「海を渡ったOMOIYARIの歌」も
海を渡ってインドネシアで現地の言葉に翻訳され上演されている。

ふくしま紙芝居まつりIN相馬 上演作品「見えない雲の下で」

避難生活が始まって数か月、着のみ着のままで逃げてきた浪江の被災者にやっと一時帰宅が許されたというニュースにジェジェと思った人は多いだろ。異様な防護服、手にはちっちゃなビニール袋一つ、持ち帰られるのはその袋に入れられるだけとのこと。他人事ながら、そんなあと思ったのは私だけではあるまい。
私なら何を持ち帰る?パソコン?入んないだろうなあ、などなど考えただけで暗い気分になった。
そんな貴重な貴重なビニール袋に語り部の原稿を持ち帰ったおばあちゃんがいた。それが浪江町の佐々木ヤス子さんだ。

その人が書き残した逃避行「恐ろしい放射能の空の下で」を元に作った「見えない雲の下で」は大きな反響を呼んだ。ラジオドラマになり、絵本になり、この度、テレビ紙芝居にした。浪江町の自治会長はこれを宝と呼び、全国各地での講演会で紹介するという。我々の活動の原点でもある「見ない雲の下で」を上演するのは、本作品の広島100回公演をめざす阿部氏である。是非、ご覧ください。

頑張れ、ドリームじいさん(仮称)

昨晩は修道大学の学生との打ち合わせだった。およそ1年前、広島の紙芝居まつりでボランティアに来てくれた学生に「あんたらも。紙芝居のシナリオ作れ」とはっぱをかけた子たちだ。
彼女たちに課したテーマは広島の江田島から気仙沼の大島に貸し出され復興の力となったフェリーの物語だ。
彼女たちなりに、いろいろ駆け回り、江田島の市長にまで面会し情報をあつめたようだ。ただ、物語にするのは、たいへんだったようで、形になるまで半年以上をようした。加えて、中々、私がOKを出さないものだから、伸び伸びになり昨日にいたったというわけだ。
昨日はシナリオを読み合わせをしながら、物語の道筋を整理したので、”これなら”というものになった。満足げに帰ろうとする彼女に「よく諦めんかったね」と声をかけると、「私たちは絶対にあきらめません」と若者らしく明るい笑顔を残し帰っていった。
江田島の皆さん、気仙沼大島の皆さん、期待してください。

フクシマ・レジェンド

次に紹介したのが「フクシマ・レジェンド」だ。
この作品、福島の郡山にすむ方の一片の詩に絵をつけるという形で作ったものだ。
日本中の多くの人が東北の人々の節操ある立ち振る舞いに日本人としての誇りを感じた。
日本から謙遜や謙虚さは消えたと思っていた私は賞賛の涙を流したことを思いだす。
じゃがしかし、その一方で、そこに押しこめられた”怒り”の行く先が気になった。

今、広島で大注目の中沢啓一だが、その人に「はだしのゲン」を作らせたのは”怒り”だ。
アメリカに対する怒り、日本に対する怒りがあれだけの作品を世に残した。
(このことは本人から直接、話を聞いたので間違いありません)
しかし怒りは扱いにくい、生前、中沢啓一という人物に今ほどの注目が集まらなかったのも、
そのせいだと思っている。
怒りを表に出さないのが現代人の術でもある。
一般社会をみればわかるが、とにかくリアルな怒りは敬遠される。
ただ絵を描く人間の端くれとして、
多少、偉そうにいわせていただくと、平和を想う気持ちだけでは
はだしのゲンの力強い線は描けない。
あの毒々しい現実に何年も何年も向かい合い、
創作活動を続けることは不可能だ。
怒りは想いを伝えるための力となるのだ。

東北の人々が受けた様々な怒り、
とりわけ原発事故という何時まで続くか分からぬ
不安に突き落とされた福島の人々の怒りは尋常ではない。
その怒りを福島に伝わる「鬼婆伝説」にのせて作ったのが「フクシマレジェンド」だ。
福島の怒りが、この物語からにじみ出て、怒りから目をそむけ、
なかったことのように扱う今の風潮に少しでも歯止めをかけれればと思う。

プロフィール

HN:
いくまさ鉄平
性別:
非公開

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