この上演予定は当初なかった。
それは実際にお会いし翔太君が演じる気分にあるかを確認した上でお願いすべきと思ったからだ。
そこで前日、みろく沢炭鉱博物館での上演後、
まち物語一行で栃本さんのところを訪れ、紙芝居上演をお願いした。
お願いしたのは“何か”で「悠稀くんの手紙」ではない。
それを選んだのは翔太君自信だった。
この物語を作ったと時、これは福島で当分、読まれることはないだろうと思っていた。
避難者の過酷な体験だからだけではない。
障害者が避難所でいじめに会うという辛辣なものだからだ。
そして、それが自分の息子の話だからだ。
それでも私が作ろうと思ったのは、それも一つの現実、
記憶が薄れぬうちに記録しておかねばと思ったからだ。
しかし、その作品が読まれる日は意外にもすぐにやってきた。
それも栃本さん自身がよむという。思いなのか覚悟なのか怒りなのか・・・
今となっては確かめることはできない。
そうこうしていると大熊紙芝居まつりで息子 翔太君と共演するのだと聞いた。
ほんとですかと絶句するしかなかった。
人は酷い体験をしたとき、心を守る為、ブレーカーが落ちるように記憶をなくすと言う。
まち物語の新多さんが被爆直後の思い出がないのも、その一例だ。
浪江の人々が「見えない雲の下で」を拒絶するのもそうだからだろう。
広島で被爆直後から被爆体験を声高らかに叫んだのは「はだしのゲン」の故中沢啓一だ。
震災後、2年もたたぬうちに自身のつらい被災体験に向き合い語る栃本さんは
中沢さんに匹敵する強さをもった人だったのだろう。
その意を受けるようにして語る翔太君。館内は涙で包まれた。
かくいう私も人前もはばからず号泣してしまった。
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